日記

某日

というかここ最近の話。仕事が忙しくて余裕がなく、ブログの更新をサボってしまった。これは言い訳に過ぎないのだが。

3システムの要件定義をほとんど1人で担当して、作業量もプレッシャーも大きな負担だった。なんとか形にして終えることができたが、課題が多い。

というか、できたことよりもできなかったことや改善点にばかり目を向けてしまう自分の思考の癖がよくないことを痛感した。まずはできなかったこととうまくできなかったこと(一応できている)をちゃんと分けて考えることから始めたい。

 

某日

爆裂に服を買ってしまった。sacaiの半袖シャツ、Salomon × 11 by Boris Bidjan Saberiのスニーカー、Arc’teryx Veilanceのセットアップ。魅力的な素晴らしい服にたくさん出会ってしまった。というか、春夏物の立ち上がりにウキウキして油断してしまった。

普段は緩めでカジュアルな服が多いのだが、久しぶりにモード色強めでバチっとした服を買った。やはりこういう服もかっこいい。

 

某日

ここ数ヶ月、下の左の前歯が頻繁に痛むようになった。痛むといっても、沁みるというか背中がゾワっとなるような感覚だ。それに常時痛むというわけではなく、1日に1度くらい、その歯を使ってものを噛み切ろうとするときに痛みが生じる。

小学生の頃、八重歯を矯正していてマウスピースや矯正器具を装着していたのだが、そのときにほんの少し歯が欠けてしまったことがある。それが今回傷んでいる歯だ。

痛む原因に心当たりもあるし、生活にこれ以上のストレスが生じるのはこまるため、10年ぶりに歯医者へ行った。

診断によるとどうやら、歯が欠けたことそれ自体に原因はなく、噛み合わせに難があり、欠けてしまうほどその歯にストレスがかかっていたことが原因とのことだ。

なるほど合点がいった。

それに、ミステリー小説のトリックのような話だと思った。過去に起きた事件の犯人も、実はそれを巻き込む大きな事件の被害者だった、的な。

歯を少し削ってもらい、現在痛むことは無くなった。

 

某日

サイバーパンク エッジランナーズ』というNetflixオリジナルのアニメを観た。

絵がとにかくクールで面白かった。

アウトローでどうしようもない奴らが刺激を求めて日々を生きている。彼ら彼女らが貪る刺激が、映像の快楽として表現されている点でトレインスポッティングと似ていると感じた。

ただし気になる点がある。この作品は世界の境界(=エッジ)を走り続ける者たちの物語だ。境界があるということは、世界の内側(登場人物たちが生きる世界)と外側が存在しているのだが、世界の外側の描かれ方は本当にこれで良いのだろうか。言い換えると、描かれる世界の外側は本当に「外側」たり得るのだろうか。

作品内では2つの外側が描かれている。個人の精神における外側と、社会の外側だ。

個人の精神については、サイバーサイコ化という形で外側が描かれる。サイバーパンクたちは身体にコア(?)を埋め込み、機械パーツで身体の部位を代替することで自らを強化する。この強化(サイボーグ化)が行き過ぎてしまうと、正気を保てなくなり、殺戮マシーン(=サイバーサイコ)と化してしまう。これが「エッジの向こう側(=外側)」と表現されている。機械化した身体で暴力の快楽に身を投じるサイバーパンクたちは、自らの身体を賭けることにより、理性が支配する領域のエッジを彷徨うのだ。

しかし、精神に外側はあくまでも個人に閉じている。個人という一個体の枠を破るわけではなく、ただ気が狂うだけである。これは果たして外側と言えるのだろうか。攻殻機動隊では、ネットワークが作り出す宇宙に個人の意識が吸収され、個人でありつつも集合体の一部となってしまう。これは人間の枠を逸脱した、エッジの外側たりえるが、本作ではただ精神に異常を来した人間にすぎないのではないか。

また、社会の外側については、月という形で外側が描かれる。第一話でヒロインが主人公に対して月に行きたいという夢を語り、月の地表を歩く体験ができるソフトを使いデートをする。サイバーパンクたちが生きるアンダーグラウンドな世界の外側に月が位置付けられる。人類が月に進出して間もなく、(地球で見られた)高層ビルやモノレールはない。太陽光による熱の感じ方や重力による体の感覚も異なる。

一見、世界の外側のように思われるが、結局のところ25万ドルの渡航費を払って行き来できる、「こちら側(=世界の内側)」の延長上に存在するに過ぎず、外側ではない。いずれは人が移り住み開拓される運命にある土地であり、拡大される「内側」の端っこなのだ。この構造は資本主義のそれと同様である。

資本主義の重力から抜け出すことができない絶望を描いた作品なのだろうと思う。

 

某日

ここ半年ぐらいベッドに入る前に、きちんとベッドメイクしている。

理由は大した話ではなく、イマイチな掛け布団カバーを買ってしまい、掛け布団カバーの中で掛け布団がズレてしまうのを直す必要があるためだ。

この毎日の手間がどうやらセルフケアにつながっているように感じる。自分を自分で大切にしていると感じられる。

日記

某日

ICLの手術を受けた。

手術の内容としては、レーザーで角膜を数ミリカットし、その隙間からレンズを挿入するというものだ。

レーザー照射時は、赤い光4つが菱形の形に並び、点滅して数秒経ったら終わっていた。

レンズ挿入時は、眩しい光を当てられて何も見えないが、眼球を押されたり引っ張られたりして視界が自分の意識に反して動いた違和感を覚えている(もちろん麻酔はされてる)。

どちらも旧アニメ版のエヴァンゲリオンで描かれるシーン(特にパイロットの心象風景)に近いと感じた。

あっという間に終わったように感じるし、実際20分程度の手術だった。

 

某日

ICL手術から3日が経過した。

常に保護ゴーグルを装着して、目に何も触れないように注意しながら生活している。

首から下はシャワーを浴びても問題ないが、髪の毛や顔を洗うことは禁止されている。

シャンプーシートや洗顔シートでなんとか誤魔化しているのだが(それでも1日に3度は拭き取っている)、髪の毛を洗いたくて仕方がない。

どうしても洗いたくて洗いたくて、髪の毛を洗うことがもはや楽しみにすらなっている。

もしかしたらシャワーを浴びるのを我慢して数日に一度だけ体を洗うようにしたら、それはとんでもない快楽になるのかもしれない、と一瞬頭をよぎったが、ただ不潔なアラサー男性が誕生してしまうだけだ。

こんなことを考えてしまうくらいには髪の毛を洗いたい。

 

某日

某タワマン小説を読んだ。

文章がうまく、固有名詞によって絶妙なニュアンスを的確に表現されており、現代の若者が抱える苦しみが生々しく描かれていて、自分も面白いと感じた。

が、ここ数年で最悪の読書体験だった。

(ダラダラ書きたくないので省く)

「孤独の本質的価値は、誰からも何も期待されないことだと思う。」という文が登場するのだが、ここにこの作品の限界が表れていると思う。

本来、孤独とは誰彼とは関係なく、目の前の事物と向き合うことであろう。

ここでいう事物とは文学やアートといった誰かの創作物であったり虫や石なんかであったり街であったりする。

「誰からも何も期待されない」なんていう、自分以外の人間がそもそも想定されている時点で孤独とは何かを履き違えている。

詰まるところ人生にしか興味のない、つまらない人間なのだ。

この作品ではつまらない人間のことしか描かれていない。

この社会では、誰もが競争に巻き込まれる。そしてどこかでその競争に敗れ、多かれ少なかれ自分と誰かを比較して嫉妬や羨望を抱いてしまう。

誰しもが抱えうるものの、決して新しいアイデアではないテーマを、固有名詞をふんだんに盛り込んで露悪的に描いただけの物にそこまでの価値はないと考える。

 

某日

友人の結婚祝いを開催した。

幸せに満ち溢れていて、とても楽しい素敵な時間だった。

この先の人生は「軽率に人を祝う」ことを掲げて生きていこうと思う。

 

某日

タル・ベーラ監督作「ヴェルクマイスター・ハーモニー」を観た。

これまで自分が触れてきた作品を全てぶち抜かれ、完膚なきまでに叩きのめされた。

面白かったとすら言い難く、心の底から1ミリもわからなかった。

この歳になってこのような作品に出会えることが本当に嬉しい。

きっとこの世界には素晴らしいものがまだまだたくさんあるのだろう。

なんと幸せなことだろうか。

日記

某日

1泊2日で仙台へ旅行へ行った。

西日本には大きな都市が多数ある(大阪、京都、神戸、広島、博多)ため選択肢があるが、東日本では東京へ出るか仙台へ出るかの2択しかない、という意見を見てから仙台がどのようなところか見にいきたいと思っていた。高校生の頃に家族で行ったことはあるが、自分の足で歩いてみたかった。

仙台駅は巨大でよかった。地方都市のデカめの駅を4倍ぐらいにした感覚だ。

うまい寿司を食べた。普段よく行く寿司屋がはま寿司の自分からしてみると、今回行った1人前が5000円近くする寿司屋は高級店だった。べらぼうに美味しかったが、少し肩身が狭かった。

 

某日

住んでる建物のエレベーターに付いているディスプレイから占いが見られるのだが、この日は運勢1位のラッキーアイテムに「水素吸入」と表示されていた。過去にはラッキーアイテムが「いかづち・雷」だったこともある。

やはり占いはまともな人間がやっているものではない。

ちなみに水素吸引機をネットで調べてみたところ、家庭用の什器はしょぼいやつで5万円、でかいやつで50万円ほどで買えるようだ。やはりまともな人間がやっているものではない。

そして僕はいまだにエレベータとエスカレーターを混同する。ちょっと考えないと出てこない。これはとても恥ずかしいのだが、本当の話だ。

 

某日

アニメのカイジを全て(第一期・第二期)観終えた。

第二期1話目で、あまりにも有名なネットミームが爆裂登場していてアツかった。

なんとなく敬遠していたが面白かった。

おそらくこの先もギャンブルはやらないであろうと思うが。

 

某日

尾形亀之助の詩集『カステーラのような明るい夜』を読んだ。

西尾勝彦氏が編集を務め、「永遠の淋しさ」がテーマとしてつけられている。

亀之助が孤独であることとずっと向き合ってきたことが伝わってきた。読んでいて、冬の冷たく乾いた風が通り去っていく感覚があった。不思議と心地いい。

だが、その背後には暗く深い何もない虚無、虚しさ、闇、深淵、深遠、のようなものがじっとそこにいることが感じられる。怖かった。

この感覚は、数年前友人から誕生日のプレゼントに贈られた別の詩集を読んだ時には感じなかった。その時はぼんやりと涼しげで淋しさ、どこか優しさがあるものに感じていたと記憶している。

 

某日

ムジナの庭という就労支援の施設を見学しに行った。

この施設へは少額ではあるが昨年から毎月寄付している。

ここ数年ケアについての関心を抱いており、本を読んだり話を聞いたりしていたので、自分の目でケアがなされる現場を見ることができてよかった。

モノづくりを通して「はたらく」ことを支援していて、その際に利用者に何かをただ作らせるというような一方的な矢印ではなく、双方向的に「何を作りたいか」、「どう改善したら良いか」を利用者とスタッフが話し合うプロセスが設けられているようだ。

その日はたまたま、普段は施設を利用している方が見学者として来られていて普段の様子を詳しく聞くことができた。とても明るくニコニコと施設での楽しい時間について話をしてくださった。

見学では利用者の方が建物や食べ物(注文するお茶とケーキ)について説明してくださった。食べ物の説明担当の方が、緊張していたのか深く調理帽子を被って顔を隠していたのが印象深かった。その帽子のつばを押さえる仕草に愛おしさのようなものを感じた。断片的なものに過ぎないのだが、まるでその人が過ごしてきた長い時間がその手に表れているように思えた。

はじめまして

つくったものを世界へ公開するのは「オモロイ」ことだと友人から教えてもらったので、ブログを始めてみる。

考えたことや感じたこと、起こった出来事を書き残していきたい。

まとまらない言葉もまとまらないままに残していきたい。(これはただ怠慢なだけかもしれないが。)

 

自己紹介がてら、自分のこれまでを振り返る。

これまで人間関係やコミュニティへの所属について悩んできた。
他者(自分以外の人、社会)との関係性が自分の人生のテーマだった。

ただ、この1,2年はいろいろなことがあって、考え方や価値観に大きな変化があった。
特に昨年(2023年)の第4四半期には、これまでの人生の伏線回収が立て続けに発生した。

 

自分は人と話すことは好きで、他者への関心は強い(と思っている)が、物心ついた時から人とのコミュニケーションへの違和感があった。
また、その時その時のコミュニティに所属することはできていたものの、どこか居心地の悪さが拭えなかった。
学生時代を振り返ると常にこれらの問題が付き纏っていた。

 

小学校は6年間クラスが変わらなかった。
人間関係のトラブルが絶えず、逃避先となるような外部のコミュニティは存在しなかった。

中学校は部活がコミュニティの中心だったが、どこかノリが当然肌に合わなかった。
なんとか部活の外にコミュニティを見つけられてその時は自分の居場所のように思えたが、近い距離感の関係もそれはそれで戸惑うところや難しいところがあった。

高校は男子校だったのでのびのび好きなことができて、やっと人間関係の悩みから解放された。
この時期に出会ったもの(音楽、小説、アニメ)に自分は生かされている。

こうして思い返すと実にくだらない悩みのように感じるが、当時は苦しんでいたと思う。
幸い友人には恵まれた(多くは大学以降で出会ったか仲が深まった人たちだ)が、自然体でいられて考えたことを素直に伝えても笑われない関係性を築くのにはかなり苦労した。

 

これまで人との関わり方では、正解パターン/不正解パターンを学習して、人当たりの良い振る舞いをしてきた。そのため他者との関係を維持することへの労力が大きく、負荷を感じていた。
それでも、今まではなんとなくやっていけていたし、自分はマジョリティ側(=コミュニティに所属してうまくやっていける)の人間だと思い込んでいた。

しかしこの1年ぐらいで、本当はそんなことはなくて、自分ははなからやっていけない、マイノリティ側の人間であること痛感した。
頑張ればできるのだからそれをサボるべきではないと自分に言い聞かせてきたが、そもそも適性がなかったという事実を受け入れた。

これは諦めに近い。努力ではどうにもならない領域なのだ。
そして諦めからは覚悟が生まれる。こんな自分でも自分なりに他者との関係を築くことができるはずだ。
この覚悟は暗い絶望ではなく、明るい引き受けであると信じている。

 

この世界には面白いものや美しいものが溢れているし、他者(自分以外の人や社会)への愛おしさが自分の中には確実に存在している。
今後は、自分なりの社会へ接続する回路を模索していきたくて、ちゃんと文章を書いていきたいとぼんやり思っていた。
冒頭にも書いた友人の言葉に後押しされたので、まずはゆるいところからこうして書いたものを公開することにした。